一体どうしたのだろう。その顔がドンドン近づいてくる。
 背中が壁にあたる。逃げ場がなくなる。至近距離まで近づいた唇が触れ合って、深く、重なり合って……。
 そして私は
 私は――。



 人類みな兄弟。博愛主義に道徳主義。も一つおまけに仲間意識。一度しかない人生ならば、みんなと仲良く過ごしましょ。私、奥山晴香はそうして生きている。
 そうは言っても、世の中にはどうしてもウマの合わない人間はいる。いてしまうのだ。残念ながら身近に。
 その日は一人で生徒会室にいた。私は一年の代表に選ばれて、入学当初から生徒会に関わっている。雑用と一年生への連絡が主な仕事だ。
 カチャリと背中の向こうでドアが開いた。私は資料をまとめる手を止める。会長かな。それとも……。
「奥山さん」
 声に反応して体が硬直した。ギギギと油が切れたロボットのように振り返ると、この東高校生徒会副会長、中原卓三がいた。
「な、何でしょう?」
 少しだけ声が裏返る。中原はプリントを差し出してきた。
「クラブの練習日程表。一年の掲示板に貼っといて。ハンコはもうもらってあるから」
「はい」
 受け取った紙に目を落とす。生活指導部の名が入った『掲示許可』のハンコが確かに押してある。
「わかりました」
 顔を上げると目が合った。それはもうばっちりと。
 飛び退きたくなる衝動をこらえて私は下を向く。中原と二人で向き合うといつもこうなる。誰か他に人がいれば違うのにと嘆いてみても始まらない。二人っきりで面と向き合うと、何かのスイッチが入ったかのように言葉は上手く出てこないし挙動も不審になってしまう。普段、無意識でやっていることが出来なくて、意識しないと右足と右手を同時に出して歩いてしまう。
 沈黙が落ちる。どうしよう。二年の中原とは学年も性別も違う。共通の話題といったらこの生徒会のことだけだ。どうしよう。こういう時何を話したらいい? いつもは何を話してる?
 こんな時の常で、背中にはダラダラと脂汗が流れる。わかっている。本当はわかっているのだ。要するに苦手なのだ、この人が。しかしながら状況は逃れることを許してくれない。喋りたくないのに話さなくてはならない。苦手だけれども生徒会全体の雰囲気が悪くなるのは嫌だから出来るだけ円満に、会話を、しなければ。
 向かい合ったままの沈黙。何分ぐらいこうしているだろう。いや実際は短いのかもしれない。
 いつまでも下を向いているのは失礼なので、思い切って申し訳程度に視線を上げた。目がまた合ったが中原は何も言わない。この先輩は面と向かった後輩が話題がなくて困っていても助け舟を出さないのだ。その上、話を切り上げようともしないものだから、ずっと気まずい時間が続いてしまう。
 何かこちらから話さなくては。この沈黙を終わらせなくては。
「せ、先輩は……」
 無理矢理上げた声は上擦ってから回った。
「クラブ活動って何かされてるんですか?」
「やってないよ。ずっと生徒会やってるからやる暇がないよ」
「そうですか……」
 会話が終わった。話が膨らまなかった。出した話題が悪かったのだ。
 ああ、話題話題。
「奥山さんもきっとそうなるよ。俺も一年の時、右も左もわからないうちにこんなところに放りこまれて、気がついたら副会長で来年は会長だ。奥山さんもきっとそうなる」
「……はあ」
 驚いた。こんな長文を返してくれたのは初めてではないだろうか。思わず顔を上げると先輩は微笑んだ。
 私は全身に鳥肌が立って一歩後ろに下がった。
「来年も一緒だ。嬉しいな」
「はい……」
 全力で否定したかったが営業スマイルと日本人の曖昧さで切り抜けた。来年は生徒会の役を引き受けないと心に誓う。このままでは彼が会長、私が副会長に……自分の想像で卒倒しそうになったのでこれ以上考えるのを止めた。
 中原は室内を見回す。
「二人っきりだね」
 最初からそんなことはわかっている。二人っきりだからこそ、私の心臓は変な音色で鳴っているのだ。
「そろそろ本当の気持ちを言ってよ」
「……気持ち、ですか?」
 もう一歩下がる。左足と左手が同時に出た。
「奥山さんは俺と二人でいると変だよね」
「そ、そんなことないですよぉ」
 必死で首を横に振る。気づかれている。何とか隠そうとしていたのに。一年代表と副会長が気まずくなったら生徒会の中が嫌な雰囲気になるではないか。どうしよう。ああ、会長ごめんなさい。
「隠さなくてもいいよ。本心を聞きたいな。こっちだって準備は出来てるから」
 人である以上『あなたを見ていると非常に不快なので私の前から消えてください』なんて素直に言えない。
 私が俯くと中原は顔を覗き込んできた。
「言えないなら俺から言おうか?」
「え?」
 思わず顔を上げる。
 私が二人っきりにならないように立ち回っていることや、『もう一生会いたくない』と心で中指を立ててることや、笑い方がウザイと思ってることが全部ばれてる……?
 中原はウザイ顔で笑った。笑って言った。
「奥山さんは俺のことが好きなんだろ」

 思考が、停止した。

「他の奴にはそうでもないのに、俺と喋るとドモるし、ちょっと震えてるし。わかってるよ、好きな奴を目の前にして緊張してるんだろ。いっつもうつむき加減で上目遣いでこっちを見て、可愛いな」
 ハッと我に返る。全身を使って否定する。
「そ、そ、そんなことないです。それだけはないです」
「わかってるって。素直になれよ」
 中原は口の端を上げて笑った。いつもより更に忌まわしい笑みだ。
「結構奥手なんだね、それがいいな。こっちとしてもスイッチが入るよ」
「な、何の?」
「知りたい?」
 私はじりじりと後ろに下がる。冷や汗と脂汗が同時に流れ出していく。頭が真っ白になった。
 笑みを浮かべたまま中原がやってくる。一体どうしたのだろう。その顔がドンドン近づいてくる。
 背中が壁にあたる。逃げ場がない。至近距離まで近づいた唇が触れ合って、深く、重なり合って……。
 そして私は
 私は――。



 気がつくと保健室のベッドの上にいた。
「キスをして失神されたのは初めてだ」
 ビクンとして跳ね起きる。ベッド脇の椅子の座っていたのは保健の先生ではなく中原だった。
「あ、あの……」
「真っ青になって真っ白になって倒れた。もしかして息苦しかった?」
 からかうように言ってくる。私は思いっきり首を横に振った。心臓の鼓動を落ち着かせる。言わなければ、今のうちに。
「わ、私は先輩のこと好きなんじゃありません。嫌いなんです。大っ嫌いなんです。さっきのことはすんだことなのでもういいですから、私に構わないで下さい」
 中原はパチパチと瞬きした。そして、人の悪そうな笑みを浮かべる。
「急にキスしたのは悪かったよ。けど照れるな」
「話聞いてください!」
「やっぱり奥手なんだな」
「違います!」
 涙目で全身に鳥肌を立てながら叫ぶと、白いカーテンの向こうから保健の先生に注意された。先生、助けて。SOSを送る前に中原が立ち上がる。
「奥山さん、もう大丈夫そうなので俺が送っていきます」
「一人で帰れます。いえ、帰ります」
 全身での拒否は遠慮と受け取られた。あまつさえ、中原くんと一緒なら安心だから送ってもらいなさい、と保健の先生が口にした。
 鬱陶しい笑顔で手を差し伸べてきた中原を、私は絶望の眼差しで見上げる。
「じゃあ行こうか、晴香」



作品リスト